安部公房『砂の女』
[あらすじ]
砂丘へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められる。考えつく限りの方法で脱出を試みる男。家を守るために、男を穴の中にひきとめておこうとする女。そして、穴の上から男の逃亡を妨害し、二人の生活を眺める村の人々。ドキュメンタルな手法、サスペンスあふれる展開のうちに、人間存在の極限の姿を追求した長編。20数ヶ国語に翻訳されている。読売文学賞受賞作。
芥川賞受賞作『壁』を読んで以来、安部公房の物語空間と、その奥にうっすら浮かび上がる<<実存>>の描写の虜になっていた。私はこの春、冬は雪かきに追われる北の島に移住したのだが、それをきっかけに本書を手に取った。
家に日々積もり積もる砂、少しでも手を抜けば家を押しつぶしてしまうような大量の砂を日々スコップで掻き出し自分たちの生活を守る女。自分が捕らわれたその業のような『生活』からあくまで脱出しようとする男。男は最後まで抵抗しようとする。しかし男は、本当に脱出したいと思っていたのだろうか?
作中に表現された、湿った砂の味、女の肌触り、スコップを手に取ったときの感覚など、文章はどこまでも触覚的である。
日々退屈な毎日から逃れようとしつつも、本当は逃れたくないゆえに生活に安住してしまうといった矛盾や葛藤。
ともすれば目を瞑りがちな、自分自身の『生活』について見直すきっかけになる一冊。
大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』(もうひとつの耳)
昔話を聞く、という経験をほとんどしたことがない。祖父母と暮らすことがなく、一年に一度か二度会うような生活だったからかもしれない。「むかしむかし、あるところに…」と始まる話は絵本の物語であって、さらに言えばわたしはそれを聞くのではなく読んでいた。昔話はおとぎ話であって、ちょっとした遠い国の出来事だった。
『M/Tと森のフシギの物語』は長い長い昔話である。本を読むわたしは、「僕」の声を通じてその祖母や母が語る昔話を聞いている。舞台となる山奥の村には、時代や季節が移り変わっても緑がいつも濃く匂っていて、なんとなく夏休みみたいだ。小さな村の大きな歴史は、ぐるぐると螺旋を描くように相似形を成して巡っていく。そのかたちは僕が言うところの「M/T」なのかもしれない。そしてかたちはいつの間にか、語りかける「僕」の日々に添うようにして、話を聞くわたしのすぐ近くに姿を見せたのだった。
螺旋が今へと続いていること、まだ続いていくことに気付いたとき、わたしは出来ればその螺旋の一部になりたいと思っていた。その意味はまだあまりよく分からないにせよ。
物語が一応の終わりを迎え、文庫本の末に挿入された解説を読んで、この物語が多分に作家の実経験に基づくものだと知った。それがまた衝撃で、じわっとくる。なんで物語を読むのだろうという問いに、答ではないけれど、何かが与えられた気がした。
そうして満ち足りた気分で、もう一度、最初のページを繰ってみる、
あるひとりの人間がこの世に生まれ出ることは、単にかれひとりの生と死ということにとどまらないはずです。かれがふくみこまれている人びとの輪の、大きな翳のなかに生まれてきて、そして死んだあともなんらかの、続いてゆくものがあるはずだからです。
この二文が、びっくりするほど明るく、きれいに、響いてきた。
フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』
[あらすじ]
鋭敏な頭脳をもつ貧しい大学生ラスコーリニコフは、一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという理論のもとに、強欲非道な高利貸の老婆を殺害し、その財産を有効に転用しようと企てるが、偶然その場に来合せたその妹まで殺してしまう。この予期しなかった第二の殺人が、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり、彼は罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならなかった。
言わずと知れた名作である。よく「○○の罪と罰」と使われるので、読んだ事はなくとも題名は聞いた事がある人が多いだろう。
『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフと同い年の23歳で本作を読んだ。新潮文庫の訳はかなり読みやすかったと思う。小説自体は長いのだが、サスペンス的な要素もあって続きが気になり、私は最後まで読む手を止めることができなかった。
主人公の親友である憎めない男ラズミーヒン、気丈夫で美しい主人公の妹ドゥーニャ、主人公に献身的な愛を注ぐソーニャ、ポリフィーリィ、スヴィドリガイロフ......そして陰鬱な主人公のラスコーリニコフ。この物語に出てくる登場人物は誰もがデフォルメされている。
過大な自意識と誇大妄想により、金貸しの老婆を殺すことを思い立った主人公。彼が実際に殺人を犯してから、自らの罪を告白するまでの心理を丁寧に描写している。
作品の伴奏として、当時の農奴解放が進み、「西欧化」するロシアの混迷した様子がよく書かれている。ドストエフスキーは作品を通して西欧から移植された魂のない「思想」にロシアの「知識人」達がかぶれることを警告している。この辺りが、彼が日本の知識層に愛された理由なのかもしれない。
昨今の日本の大量殺人事件を見ていても、本書の意義はいまだ十分に生きている(悲しいことだが)。
読んでおきたい一冊。
大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』
[あらすじ]
四国の森の奥深く、時の権力から独立した一つのユートピアがつくり出される。「壊す人」と「オシコメ」に導かれて展開する奇想天外の物語は、いつしか20世紀末の作家が生きる世界、われわれの時代に照応して行く……。人間の再生と救済を求めて、雄大な文学的想像力と新しい語りが生んだ感動の大作。大江文学の原点の物語。
時にグロテスクで独特な文体である大江健三郎の小説は、どちらかといえば入り込み辛い。しかしそんな私でも、この長編小説は一気に読み進めることができた。
四国の山奥の村。「大きな物語」である日本の歴史からは外れ、時には包摂されることに抵抗した村の興亡史は、最終的には現代に生きる我々へとつながる。
神話と文学が交錯する物語は、全体を通して、我々日本人にとってはどこか懐かしい匂いがする。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』に出てくる村マコンドーの、日本版といえなくもない。しかしそれをはるかに超える、大江健三郎独自の壮大な世界観が物語の中には広がっている。これがノーベル文学賞受賞の理由のひとつになったのも頷ける。彼は愛媛県の森に囲まれた谷間の村の出身である。その土地に根付いた深層の物語と、個人の思想が結びつく様は、それだけで読み手に感動を与える。
本好きには絶対におすすめの作品。
サマセット・モーム『お菓子とビール』
お菓子とビールというタイトルに惹かれた。原題はCakes and Ale. くちあたりの良い組み合わせ。モームの描く、イギリスのとある文豪と女の話。
表紙の写真につられて、文章はセピア色の映像で再生される。若きドリッフィールドたちが乗る自転車はきっとやけにタイヤが大きい黒色で、ペチコートでスカートをふくらませた女たちも、少し埃っぽいにおいがするのだろう。
ロウジーは、そんなセピア色の世界のなかで発光している。唇には紅がさし、肌は世界にそぐわない白だ。そして夜になり、月の下で彼女は銀色の金色になる。そのときセピアのトーンはモノクロに変わり、彩度のない世界でぽおっとロウジーが光る。静かで劇的で、わたしはアシェンデンになってそのロウジーを描きとめてみたいと思ったりする。
そうやって月と太陽が一緒になったみたいなロウジーは、でも物語の終わりにはたしかセピア色の世界の住人になっていた。そしてセピア色の世界は別に遠い世界でもなくなる。端的にいえば儚くて、きっと現実もこうなんだろうと知りもしないのに現実的だった。
そのお菓子はどんな「ケーク」だったのだろう。結局のところ肝心の場面は大して思い出せず、ただタイトルだけを、たまに反転させながら、口のなかで飴玉のように転がす。タイトルが好きなのだ。
ヘミングウェイ『老人と海』
[あらすじ]
キューバの老漁夫サンチャゴは、長い不漁にもめげず、小舟に乗り、たった一人で出漁する。残りわずかな餌に想像を絶する巨大なカジキマグロがかかった。4日にわたる死闘ののち老人は勝ったが、帰途サメに襲われ、舟にくくりつけた獲物はみるみる食いちぎられてゆく……。徹底した外面描写を用い、大魚を相手に雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う名作。
初めてこの本を読んだのは小学生の頃、読書感想文のためだった。課題図書か何かだったと思う。老漁夫がただひたすら海上で漁をしながら、独白するだけの物語を読んで、「なんてつまらない本なんだ」と感想を抱いたのを覚えている。
大人になった今、ふとこの本の存在を思い出して再び手に取ってみた。今は漁師町に住んでいるので、「漁師」という存在の理解の一助になればと思ったからだ。
『老人と海』の読後感は、小学生の頃とはまるで違った。やはり読む時期というのは重要であるらしい。たったひとりで小舟に乗り、何日間もカジキマグロとの死闘を勝ち抜くも、戦利品であるマグロのほとんどすべてを追尾してきたサメに奪われる老人。
描写は細部まで精巧に作り込まれている。淡々と進む物語の向こう側に、ヘミングウェイの視線が見える。彼はある一点、遠い一点を迷うことなく見ている。
簡潔で無駄がなく、一気に読んでしまえる本。空いた休日の午後にオススメ。