森達也『FAKE』
もう数年前のこと。卒論の構想を書く中で、柳宗悦の説く「直観」の現代における重要性をとある”時の人”を例に挙げて説明したことがある。佐村河内守。耳の聴こえない作曲家として世が評価し、持ち上げ、そして「ゴーストライター」が発覚して世間から糾弾された人。わたしは彼を巡る事件を取り上げて、確かこんなようなことを言った。「私たちは本当に自分の眼でものごとを、芸術を、みているのだろうか」
映画FAKEは渦中の佐村河内さんとその奥様に密着した”ドキュメンタリー”だ。二人はマンションの一室からほとんど出ることなく、監督のカメラは彼らの「怒りではなく悲しみを撮る」ために静かにうすぐらい部屋を写す。
二人(と猫一匹)のインティメイトな世界には、たまに外から人がやってくる。例えば「真実を知らせるために」と佐村河内氏の出演を請うTVプロデューサー。次のカットではバラエティ番組のコメンテーター達の笑い声が暗闇に光るTVからもれる。裏切られた、と二人(そして観ているわたしも)は苦い顔をする。その光景はひたすらに辛い。なんてひどいやつらだ、とわたしはいつの間にか佐村河内さんの肩を持つようにして憤っている。
あるいは海外からやってきたジャーナリスト。的確で綿密な質問を重ね、事件そして佐村河内氏について迫る。観ているわたしは、何か傷つけられてしまわないか(ぼろが出てしまわないか)と皮肉にもハラハラとする。そして更に残酷なことに、彼らが「真実」を暴き出してくれることを心の底から期待していた。
そしてエンドロールも流れて最後のカット。森監督のあまりにずるい質問と編集に、思わず声を洩らしたところでスクリーンは明るくなる。
これは嘘、本当、良い、悪い、好き、嫌い、白い、黒い、赤い、青い、と私たちは何かと決めたがりがちだ。明確に「分かる」ことは気持ちが良い。裏側の色なんて考えていられないから、見える部分にぱっと線を引いて区切ってしまう。物事をカテゴライズし、自分のちっぽけな掌中に収めようとする欲望がいかに何でもない顔をして残忍な行いをするのか、この映画はまざまざと観者に突きつける。わたしは最後のカットで、佐村河内さんが迷いなく応えてくれることを期待していたのだ。その期待は、映画を撮る人のある視点によって形成されたものであり、翻って私たちが無意識に持つカテゴライズへの欲望によるものでもある。マスコミを動かすのは私たち自身の欲望だ。そして煽動するような物言いならまだしも、穏やかな顔をして喰われるのを待っている言葉や情報を、私たちは日々与えられるがままに(あるいは選り好みをして)飲み込んでいる。わたしにとってはくらくらする事実である。先述の自分に問いただしたい;「自分の眼」は何でできているの?
ところでわたしはシネマテーク(の中の人)のtwitterアカウントをフォローしている。次々とリツイートされる感想につられてこれは観なければと映画館に足を運ぶ(この映画もそうだった)。そのとき、もう既にわたしの感想はあらかた決まっているなんてこと、
あるのかもしれない。
ドキュメント・森達也の『ドキュメンタリーは嘘をつく』 (DVD付)
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