犬の耳

犬の耳

読んだ本、聴いた音楽、観た映画などを忘れないための「いぬのみみ」です。くらしのお役立ち情報もお伝えします。

オルテガ・イ・ガゼット『大衆の反逆』

1930年刊行の大衆社会論の嚆矢。20世紀は、「何世紀にもわたる不断の発展の末に現われたものでありながら、一つの出発点、一つの夜明け、一つの発端、一つの揺籃期であるかのように見える時代」、過去の模範や規範から断絶した時代。こうして、「生の増大」と「時代の高さ」のなかから『大衆』が誕生する。諸権利を主張するばかりで、自らにたのむところ少なく、しかも凡庸たることの権利までも要求する大衆。オルテガはこの『大衆』に『真の貴族』を対置する。「生・理性」の哲学によってみちびかれた、予言と警世の書。 

 

学生時代に手に取った本を再読した。読み返して、当時の自分はオルテガの話を全く聞いていなかったことに気がついた。タイトルの『大衆の反逆』、そして彼の大衆に対する言葉遣いのみを捉えて単なる大衆批判の本として片付けてしまっていたのだ。

 

オルテガの言う大衆。それは現代に生まれた原始人。歴史的発展の上にある現代において、その歴史をまったく理解せず、興味も持たないままただ技術の使い方のみ精通している人間たち。自分より偉大なものに敬意を払わず、義務ではなく権利のみを過大に要求する「慢心しきったお坊ちゃん」である大衆。そして現在(第一次世界大戦後)、人類は向かうべき方向性、未来を持っていない......。

 

私が感銘を受けたのは、オルテガの生に対する向き合い方である。常に自分の生に対して問いかけ、情熱を燃やして闘うことを自身に求める。それが彼の言う「貴族的な」生き方である。それゆえに彼は本書で、共産主義を否定しつつもその内的な精神運動を肯定している。私は彼が言うように人生に目的を常にもち、それに向かって生きることにしか意味がないとは全く思わない。だが、やはり日常生活に忙殺されるなかで、今よりはもう少し自分の生に対して真剣に向き合わなければならないと強く思った。

 

日常生活で自分の生に耳を傾けるのは難しい。その声は、日常生活の発する命令とはしばしばあまりにもかけ離れた、矛盾したものであるからだ。しかし硬直した日常生活に沈殿すると、そのままずるずると時代ごと下降してしまう。生の声とは個人が時代から鋭敏に感受した声であり、生の声に耳を傾けるとは、つまりは時代の声に耳を傾けることなのだと私は思う。

 

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

 

 

宮崎駿『風の谷のナウシカ』

[あらすじ]

「火の七日間」と呼ばれた世界大戦から1000年後、地球は、毒ガスを吐き出し、不気味な蟲たちが徘徊する「腐海」と呼ばれる森に覆われようとしていた。ナウシカは、腐海のほとりにある「風の谷」の族長の娘である。ある日、風の谷に、蟲たちに襲われた1隻の商船が不時着したところから物語は始まる。それは軍事大国トルメキア王国と、それに対抗する土鬼(ドルク)諸侯国との泥沼の戦乱の始まりでもあった。ナウシカはひとり風の谷の命運を背負って、その戦いに飛び込んでいく。

 

ずっと気になっていた本書を、ついに手にとって読んだ。 読了後、私は友人に向かって「筆者はここまで心の奥底に潜りながら、よく心を壊さずに現実世界に戻ってこれたな」と感想を送った。それくらい、これは人間の心の闇の彼方に聞こえる小さな声をすくいだして造られた物語であると思う。

 

主人公ナウシカの心の世界で、虚無が語りかける。それに対して、彼女は答える。「わたし、生きるの好きよ」と。その一言がナウシカのパーソナリティーであり、本書の結末、究極の選択の理由でもある。この作品を読んでいると、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を思い出さずにはいられない。どちらも来世を否定し、今ある生を肯定することが強力なテーマになっている。

 

この作品は、嘘をついていないところが良いと思った。単なるお花畑の物語ではない。「悪意」をこれほどまでに鋭い目で凝視したような作品は滅多にないと思う。そして、その鋭い目は、大きな優しさに支えられているからこそ、「悪意」のさらに奥にある「愛情」に気がつくことができたのだろう。それは作品最後の重要な鍵となっている。

また、「救世主」としてのナウシカは、SF映画『マトリックス』と類似するテーマでもある。

 

 傑作である。映画は観たが漫画は読んでいないという人は是非。

 

志賀直哉『暗夜行路』

[あらすじ]

祖父と母との過失の結果、この世に生を享けた謙作は、母の死後、突然目の前にあらわれた祖父に引きとられて成長する。鬱々とした心をもてあまして日を過す謙作は、京都の娘直子を恋し、やがて結婚するが、直子は謙作の留守中にいとこと過ちを犯す。苛酷な運命に直面し、時には自暴自棄に押し流されそうになりながらも、強い意志力で幸福をとらえようとする謙作の姿を描く。

 

長い。(物理的に)重い。(タイトルが)暗い。本書をはじめて手に取ったとき、素直に思ったことである。本を裏返してあらすじを読んで、鬱屈とした内容であることを覚悟した。

 

読み進めてみれば内容はあらすじの通りなのだが、不思議と暗さはない。鬱屈感もあるにはあるが、底の見える程度のものだ。『罪と罰』のような重厚な物語というよりも、志賀直哉の筆力で最後まで描ききったような作品だ。完結まで17年を要したらしい。

 

志賀直哉の文体は剃刀のようにシャープで、透き通っている。描写力は凄まじくて、頭の中に情景が容易に浮かぶ。川端康成の文体をもやがかった白だとしたら、志賀直哉は透明だ。内容よりはむしろ、私は彼の文才に憧れる。悪く言えば読んだ内容が全然頭に残らないのだが、とにかく彼は自分のセンスで物事を描写しきってしまう(少なくともこの本や他の短編を読んだ限りではそう思う)。重い本のどのページを適当に開いて読んでも、それ自体が短編として成り立ちそうだ。まさに夏目漱石が『草枕』中で述べていた理想を体現した小説である。

 

この本、日本文学の傑作らしい。私自身、作中の主人公と同じく東京と京都をふらふら往き来しながらこの小説を読んでいたので、自分自身と重ね合わせるのも面白かった。読み進めながら、志賀直哉のまっすぐさ(の怖さ)、不甲斐なさまで伝わってくる。

 

とにかく、ひとりの人間がその魂をぶつけて作り上げた作品であるのは間違いない。秋の夜長におすすめの一冊。

 

 

暗夜行路 (新潮文庫)

暗夜行路 (新潮文庫)

 

 

ピエール・ジュネ『アメリ』

[あらすじ]

空想好きの小さな女の子アメリは、そのまま大人になってモンマルトルのカフェで働いている。
彼女の好きなことはクレーム・ブリュレのカリカリの焼き目をスプーンで壊すこと、周りの人たちの人生を今よりちょっとだけ幸せにする小さな悪戯をしかけること。
彼女の人生は、スピード写真コレクターのニノとの出会いによって、ある日突然、混乱をきたす。
人を幸せにするどころか、優しい笑顔のニノにアメリは恋心を打ち明けることが出来ない。
アメリの最も苦手な現実との対決、不器用な恋に必要なのは、ほんの少しの勇気。

 

最近、映画を何本も見ていたが、その中で印象に残ったのは本作『アメリ』である。鮮やかな画面、独特の言い回しによる人物描写、簡潔で洗練された物語構成。行間から想像させるという点は小説的とも言えるし、映像の特性をうまく活用している点では映画的な映画だ。

 

本作を観た直後は、オドレイ・トトゥ演じるアメリがかわいいというより不気味に感じた。恋をした男ニノに対して、まるでストーカーのように振る舞う。彼女の立ち振る舞いは奇行としか言えない。他の登場人物達もどこかズレている。

 

空想好きなアメリは、ニノに恋心を抱きながらも現実世界のニノと接触することを注意深く避ける。自身の妄想を傷つけないよう細心の注意を払いながら彼に近づいていく。しかし、男を自分のアパルトマンの部屋まで呼ぶところまではいっても、彼女は自分の部屋の扉を開けることができない。そんな中、近所に住む、数少ない理解者である絵描きの老人が、アメリに扉を開けるよう諭す。

 

物語の核心は、空想好きなアメリが想像の城を出て「現実」と対決するシーンである。彼女の決断が、幸せを掴む鍵となる。映画を観終わってから、私は日常生活の中でこのシーンの意味をゆっくりと咀嚼した。いい作品は、噛めば噛むほど味が出る。

 

自身の恋愛事情を鑑みながら、夏の夜に本作を見てもいいのかもしれない。

 

アメリ [Blu-ray]

アメリ [Blu-ray]

 

 

森達也『FAKE』

もう数年前のこと。卒論の構想を書く中で、柳宗悦の説く「直観」の現代における重要性をとある”時の人”を例に挙げて説明したことがある。佐村河内守。耳の聴こえない作曲家として世が評価し、持ち上げ、そして「ゴーストライター」が発覚して世間から糾弾された人。わたしは彼を巡る事件を取り上げて、確かこんなようなことを言った。「私たちは本当に自分の眼でものごとを、芸術を、みているのだろうか」

 

映画FAKEは渦中の佐村河内さんとその奥様に密着した”ドキュメンタリー”だ。二人はマンションの一室からほとんど出ることなく、監督のカメラは彼らの「怒りではなく悲しみを撮る」ために静かにうすぐらい部屋を写す。

二人(と猫一匹)のインティメイトな世界には、たまに外から人がやってくる。例えば「真実を知らせるために」と佐村河内氏の出演を請うTVプロデューサー。次のカットではバラエティ番組のコメンテーター達の笑い声が暗闇に光るTVからもれる。裏切られた、と二人(そして観ているわたしも)は苦い顔をする。その光景はひたすらに辛い。なんてひどいやつらだ、とわたしはいつの間にか佐村河内さんの肩を持つようにして憤っている。

あるいは海外からやってきたジャーナリスト。的確で綿密な質問を重ね、事件そして佐村河内氏について迫る。観ているわたしは、何か傷つけられてしまわないか(ぼろが出てしまわないか)と皮肉にもハラハラとする。そして更に残酷なことに、彼らが「真実」を暴き出してくれることを心の底から期待していた。

そしてエンドロールも流れて最後のカット。森監督のあまりにずるい質問と編集に、思わず声を洩らしたところでスクリーンは明るくなる。

 

これは嘘、本当、良い、悪い、好き、嫌い、白い、黒い、赤い、青い、と私たちは何かと決めたがりがちだ。明確に「分かる」ことは気持ちが良い。裏側の色なんて考えていられないから、見える部分にぱっと線を引いて区切ってしまう。物事をカテゴライズし、自分のちっぽけな掌中に収めようとする欲望がいかに何でもない顔をして残忍な行いをするのか、この映画はまざまざと観者に突きつける。わたしは最後のカットで、佐村河内さんが迷いなく応えてくれることを期待していたのだ。その期待は、映画を撮る人のある視点によって形成されたものであり、翻って私たちが無意識に持つカテゴライズへの欲望によるものでもある。マスコミを動かすのは私たち自身の欲望だ。そして煽動するような物言いならまだしも、穏やかな顔をして喰われるのを待っている言葉や情報を、私たちは日々与えられるがままに(あるいは選り好みをして)飲み込んでいる。わたしにとってはくらくらする事実である。先述の自分に問いただしたい;「自分の眼」は何でできているの?

 

ところでわたしはシネマテーク(の中の人)のtwitterアカウントをフォローしている。次々とリツイートされる感想につられてこれは観なければと映画館に足を運ぶ(この映画もそうだった)。そのとき、もう既にわたしの感想はあらかた決まっているなんてこと、

あるのかもしれない。

それでもドキュメンタリーは嘘をつく (角川文庫)

それでもドキュメンタリーは嘘をつく (角川文庫)

 

 

ドキュメント・森達也の『ドキュメンタリーは嘘をつく』 (DVD付)

ドキュメント・森達也の『ドキュメンタリーは嘘をつく』 (DVD付)

 

 

村田沙耶香『コンビニ人間』

[あらすじ] 

36歳未婚女性、古倉恵子。大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。これまで彼氏なし。日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、そんなコンビニ的生き方は恥ずかしいと突きつけられるが…。「普通」とは何か?現代の実存を軽やかに問う衝撃作。第155回芥川賞受賞。

 

2016年上半期の芥川賞受賞作。

タイトルに惹かれて購入した。本を手にとったそのままの勢いで全部読めてしまった。

 

日常生活も自身の思想もコンビニが体現する合理的な原理に支えられた人間、コンビニ人間の話である。ただし、「現代で機械的な生活を送るうちにコンビニ人間にされてしまった」現代批判的な筋書きではなく、コンビニの原理に自ら積極的な意味を見出してゆく、能動的なコンビニ人間である。 

本作では、『普通』という言葉が繰り返し出てくる。一般的に言われる「『普通』に生きる」とはどのようなことか理解できず戸惑う主人公。『普通』の文脈に対して悪態をつきつつも結局は『普通』の中で生きたいと苦しむ男。

 

コンビニ的世界観に満足していた主人公は、「そんな生き方は恥ずかしい」と一緒に住むことになったダメ男から突きつけられる。それを受けて、彼女は一時はコンビニから離れようとする。だが結局は彼女はそれを肯定的に乗り越える。

 

読みながら「『普通』とは何か」をじっくり考えさせられる。 本作が『普通』について独自の視点から語っているのは疑いない。

 

コンビニという身近な視点から、多くの人がうちに抱えているもやもやを描き出しているので、読んで損はないはず。

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』

[あらすじ]
本書はチェコ出身の現代ヨーロッパ最大の作家ミラン・クンデラが、パリ亡命時代に発表、たちまち全世界を興奮の渦に巻き込んだ、衝撃的傑作。「プラハの春」とその凋落の時代を背景に、ドン・ファンで優秀な外科医トマーシュと田舎娘テレザ、奔放な画家サビナが辿る、愛の悲劇―。たった一回限りの人生の、かぎりない軽さは、本当に耐えがたいのだろうか?甘美にして哀切。究極の恋愛小説。 

 

ニーチェ永劫回帰という考え方はニーチェ以外の哲学者を困惑させた」。こんな書き出しで始まる小説の内容は、紛れもなく哲学的である。通常では考えられないほど多数の女性と日々交わる精神科医トマーシュ、そんな彼のもとにスーツケースひとつで飛び込んできた若いテレザ、個性的な画家サビナ、そして幼児退行的な性格を持つ大学教授フランツ。物語はこの4人を中心にまわってゆく。第1部『軽さと重さ』→第2部『心と身体』→第3部『理解されなかったことば』ときて、第4部『心と身体』→第5部『軽さと重さ』と物語は戻ってゆく。クンデラ自身、クラシック音楽をとても愛しているようで、音楽から借りたイメージが多数出てくる。

 

この作品の内容的、思想的な解説、感想等はインターネット上にも溢れているので、ここでは私自身が作品全体を読んで何を感じたのか、感覚的なことを書こうと思う。

 

全体を通して、深いレベルで「悲しさ」「虚しさ」が通奏低音になっている。しかしそれはとらえようによっては悲しい「悲しさ」ではなくて、ある種愛しい、美しくさえある「悲しさ」である。何か具体的なものに対する反応としての「悲しさ」ではなく、人間存在そのものに対する「悲しさ」。それらをめぐって登場人物たちは物語を展開させる。クンデラのキャラクターの作り方は非常に論理的で、数理モデルを連想させる。物語の言葉は数学同様、抽象的で、透明である。作品はどこまでも幻想的で、文章を読みながら、自分の日常世界からは遠く離れた場所、例えば夢の中に作品の映像は再生される。

 

「人生は私にはとても重いものなのに、あなたにはごく軽いものなのね。 私はその軽さに耐えられないの」。作中に出てくるこの言葉が、ふとした瞬間突き刺さる。果たしてこの言葉は誰に対して言っているのか。直接的にはテレザがトマーシュに言ったものだが、それ以上の、人間の心の叫びのように思われた。

 

本作の雰囲気自体、とても良い。私は本作を読んだ後、実際に作中に出てくるプラハのペトシーンの丘にひとり訪れた。美味しいケーキのような、読後の余韻を感じたいときにオススメ。

 

 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)